せっかちな冬の訪れが、ゆっくりと楽しみたい季節の移ろいを慌てさせたかのように、秋特有の清涼感はアッという間に過ぎ去ってしまったようです。我が家のベランダから眺められる桜や銀杏、樫といった僅かばかりの木立の姿も、ここ1週間ばかりの間で早回しのようにみるみる葉の色づきが動き、すっかり深い黄、濃い紅へと変化させてハラハラと舞っています。
散歩の途中で毎日のように目にしていたはずの百日紅(サルスベリ)の桃色の花も、気づけばすべて落ち払って、木枯らしの中で細枝とつるつるの幹だけといういかにも寒そうなあらわな姿に。それを見る私は、お決まりのように「これじゃあ、お猿さんもツルッとすべっちゃうね」と頭の中で一人つぶやきます。
ここしばらくの間、誰もが目をそらさずにはいられずに見守りつづけているのは、9月に始まった日朝国交正常化交渉、そして拉致問題でしょう。暗闇の中を必死でもがき苦しみ、先へ進むべき道を探し続けてきたこれまでの長い時間と、その闇を心に抱えながら先へ進まなければならないこれからの道。この凄まじい現実を、あまりに遅すぎるけれど、わたし自身もようやく日本の問題として、この日本で同じ時代を共に暮らしてきた社会の仲間の一人として認識できるようになったところです。
そんな無力で無知な私に、今できること。それは、拉致被害者の方々、そして家族の方々の存在をしっかりまっすぐに見つめ、自分の想像力を働かせながらこの方々の心の深い闇を慮り、思いを寄せることしかありません。
秋はたちまちに過ぎてしまったけれど、帰国した五人にとっては久しぶりとなる日本での師走の風景、年越しのにぎやかさ、そして気持ち新たに迎えるお正月はもうすぐそこです。すす払い、大掃除、年越し蕎麦、除夜の鐘、初詣、おせち料理、お雑煮・・・。それらをゆっくりと味わってもらえることができたなら、と心から思います。
そうして、そう思うことによって、毎年当たり前のように繰り返されてきたことを、わたし自身が、昨年までとは違った思いで気分新たに受け止めるような気がしています。今年の冬は長くなりそうで少し気が早いですが、これまで以上に心を鎮め、行く歳来る歳を静かに過ごしてみようかな、との殊勝な心持ちが少しばかり沸いてきているのです。
ところで、「拉致」という言葉。それまで決して私たちの日常の中で馴染みのある言葉ではなかったはずです。この言葉が活字となって当たり前のように目に飛び込んでくる度、何て恐ろしい言葉なのだろう、との感じが沸いてきて仕方ありませんでした。
「拉」とは手偏(てへん)に立つ、という文字が組み合わさっているので、その見たままの解釈から“立っている人を有無を言わせる間も与えず、何本もの手が伸びてきて力ずくでさらって行く”、そんな一つの映像が頭の中で反射的に浮かんできてしまうのでした。そして実際、帰国した五人の方々が後に語ったとして伝えられた事件発生の生々しい状況は、その恐ろしい想像に違わぬ現実のものでもありました。
そんな発想が頭の隅っこに巣くっていた私に、食卓テーブルに置かれたインスタントラーメンの袋の図柄の何かが、ふと引っかかりました。小腹が空いたときに好んでよく食べているいつもの見慣れているはずのものです。
「ウムッ?!」
私の目に飛び込んできたのは、なんと「本格派拉麺(らーめん)」という文字。これまで何度も目にしていたはずなのに。拉致と拉麺、同じ文字が使われていたなんてことに改めて気づき、自分の感覚のあまりの違いぶりに、我ながらびっくりしてしまったのでした。
同じ文字であっても、そこに込められた意味によって、発するメッセージや受け取る思い、感覚、想像、反応がぜんぜん違うというのは当たり前のこと。その端的な形を自分の中でありありと実感させられました。今こうして「拉致被害者」「拉致被害者家族」という言葉をここにスラッと書くことにさえ、どこかに棘が刺さっているような異物感のようなものを感じています。
そしてラーメンはといえば、麺好きの私の喉をスルスルっと満足げに通過していくのでした。
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